こんにちは、「南紀ローカル通信」の枯木屋ユージンです
またまた古い作品となりますが、今回は、ジェーン・カンピオン監督『ピアノレッスン』のレビューです。
出典:Sabrina Eickhoff Pixabay
恋愛映画は嫌いだ
私は、どうも恋愛映画は好きになれません。
大きな理由としては多分、こんな美人とこんな仲になれるはずもないと言う、ひねくれた感情で観ている事が原因ではないかと思います。
それに女性を好きになることほど、主観的なこともないような気もします。
なのに登場人物がお互いを、好きだとか嫌いだとか、永遠の愛だと言われても、入り込めません。
中学生の時(もう何十年前か忘れました)、
同じクラスの女子が『ある愛の詩』という小説を読め読めといって文庫本を押しつけてきました。
私はなぜかこの子が苦手で「じゃあ読んでみるわ」と言って受け取り、数日後に「おお、面白かった」と言って突き返したのです。
もちろん読んではいません。最初の2ページほど努力しましたが。
その何年後かに、テレビでこの小説を映画化した『ある愛の詩』が放映されていたので、ぼやっと観ましたが、やっぱり入り込めませんでした。
当時はなかなか評判になっていた映画です。
恋愛映画で思いつくもっと有名なものは、
『マディソン郡の橋』でしょうか? これは若い男女ではなく中年の男女で、恋愛ものというより不倫ものというべきか。
クリントイーストウッドの演出は見事だし、評価も高い映画です。最後はグッと来るのですが、やっぱり抵抗があります。
なぜだろうと自問自答してたどり着いた答えは、この映画の主人公、男女二人が最初から最後まで不倫の言い訳をしているように感じたからです。映画全体でもそう感じます。
家族や迷惑の掛かる人には言い訳が必要ですが、観ている第三者の私は、そんな部分はもっと簡略化して欲しい。
惚れあったものは仕方がない。
ここまでひねくれた事を言ってしまうと、もう熟年親父の遠吠えです。
もっと言えば、
若者をターゲットにした最近の恋愛映画。
予告編だけで、首筋が痒くなり拒否反応を起こしてしまいます。
さらに言うとテレビドラマで、(もう死語になっているかもしれない)壁ドンなんか見たら、ブラウン管をブッ壊したくなります。
液晶テレビしかありませんが。
作る側の意識が、受け手を甘く観ているのではないでしょうか?
現在の日本の報道番組が、噓っぽく偽善的なのこととも直結しています。
恋愛といっても、
血縁以外でこれほど濃厚な人間関係はないでしょう。(恋愛恋愛と言っている自分が、少し恥ずかしくなってきました)
それはある時、物凄く気まずかったり、それどころか息苦しくて仕方なかったりすることもあります。
しかし今の世の中、この気まずさ息苦しさを、余りにも遠ざけようとしていないか。
ネット、SNS、マッチングアプリなど、人との付き合いを構築しないで済む仕組みばかりです。
そして、お互いにその場の空気を気遣いしすぎる、奇妙な乗り。
こう書くと、オジサンが今の若い人はと言っているようですが、そうではなく私も含めた全世代のことです。
自分が若いころにマッチングアプリがあったら、使いまくってもっと色々楽しい事があったはずだ。
どの世代も時代に引っ張られない人はいません。むしろ年齢を重ねた人ほど注意していないと危ない。
自分が生きた時代の価値観でしか、物事を観ることが出来ないでしょうから。
結局は人間関係の軋轢を避けようとする余り、逆にストレスが積み重なって、現代の生づらさに繋がっているのではないか?
しまいには自滅するか、爆発するか。
そんな事は100パーセント自己責任などと言う人がいたら、その人こそ本当に注意しなければなりません。
ようやくピアノレッスンの話です。
この映画を単に恋愛映画と言ってしまっていいのかどうか分かりませんが、もしそうなら私にとって、たったひとつの恋愛映画になります(ちょっと大袈裟)。
出典:Laura Paraschivescu Unsplash
公開:1994年(日本)
監督:ジェーン・カンピオン
音楽:マイケル・ナイマン
脚本:ジェーン・カンピオン
出演:ホリー・ハンター(エイダ)
:ハーベイ・カイテル(ベインズ)
:サム・ニール(アリスディア)
:アンナ・パキン(フローラ)
ごく簡単なストーリーの説明
映画の舞台は1852年のスコットランドから始まります。
日本でいうと幕末ですが、それが西欧やニュージーランドとなるとイメージが湧きません。その辺りの映像も興味深かった。
過去のトラウマから話すことをしなくなったエイダ(ホリー・ハンター)。 自分の感情表現は唯一ピアノを弾くこと。
映画のテンポはゆっくりでも、この設定が物語にスピード感を持たせてくれます。
そのピアノと娘のフローラ(アンナ・パキン)を伴い、ニュージーランドに向かって過酷な船旅をすることになりました。
父親が決めた結婚相手、入植者のアリスディア(サム・ニール)の元へ嫁ぐため。
映画での説明は詳しくありませんが、昔の日本で親が決めたお見合い結婚のような、生易しいものではなさそうです。
荒波のニュージーランドの海岸に到着しますが、ピアノが余りにも重く大きい為、夫のアリスディアは輸送してくれず、海岸に捨て置くことになってしまいました。
しかし、原住民マオリ族と関わりの深いベインズ(ハーベイ・カイテル)がピアノを運んでくれたのです。
ところがピアノの所有権はベインズとなり、ベインズの自宅に持ち込まれます。
ここからエイダ、アリスディア、ベインズの三角関係が加熱していくという展開。
ストーリーの説明はこれくらいにしておきましょう。
ピアノレッスンで描かれる恋愛関係、
または人間関係は気まずく、息苦しい。
カメラはその現場にあるので、そこから逃げ出したくなります。
しかし三角関係にある登場人物は逃げません。
否応なく自分に向き合い、相手と向き合う羽目になるのです。
特に息苦しいのは、エイダがベインズにピアノのレッスンをするくだり。
ピアノを返して欲しければ、自分にレッスンをしろと。 一回のレッスンで、鍵盤一本返すと。
レッスンが始まるとセクハラが始まり、回を重ねるごとにエスカレートしていきます。
セクハラでありパワハラ。
ここで私は、大変な違和感を覚えました。これは買春であり売春だから。
ここまで描かれてきたエイダは、自尊心が高く意思の強い女性です。
でも、話が進むと違う見え方になってくる。
二人はレッスンの契約をした時点でもうすでに、お互い強く惹かれあっていたのだろうと。 買春、売春は、お互いの自分たちへの言い訳なのではないか。
こんな複雑な恋愛関係は、この映画の奥深さが一番現れているところでもあります。
ベインズはマオリ族と同じように顔にタトゥーを入れていたりするので、一見荒くれ者に感じますが、映画終盤で真顔で直球でエイダに愛を告白するシーンは、同じ男としてジンときます。本当にいい奴だなと。
エイダの娘、
フローラもいいのですね。
話さないエイダの通訳として重要な役どころですが、賢くて、気が強くて、意地悪で可愛らしい。
この映画が好きなのは、
内容以外にもいくつかあります。
ニュージーランドの海岸に近づいた船を海中から撮影したカットがいきなり挿入されていたり、突飛な感じで人形アニメで説明があったりと、なかなかのセンスと楽しい演出がされているところ。
それに何と言ってもテーマ音楽がいい。
誰もが一度はどこかで聴いたことがあるだろう、ピアノ演奏。 あっ、この映画の曲だったのかと思うはずです。
ここまで書いてきてフッと気付きました。
これは本当に映画レヴューなのか? 自分はピアノレッスンの名を借りて、ほとんど別の事を言っているのではないかと。
もう、しかたありません。
今、もし、これを読んでいて、表面的な事だけの人間関係で疲れている人がいたら、この映画を観て欲しい。
とは言っても、なにかが解決する訳ではないのですがね。
レビューを書く為に、二度目を観ている間ずっと思っていたのは 、今の日本に対するこんな気持ちでした。
初めて観た、30年前には考えなかったことです。
そんな訳で『ピアノレッスン』に対する感想が、より多面的になってしまいました。
いかがでしたか
ピアノレッスンのレビューは以上です。
ではまた、次の記事でお会いしましょう
2023年11月 記